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大鵬 柏戸 時代が懐かしい・・・・
あの頃は気品がありました
【関連ブログ】朝青龍明徳
あの頃は気品がありました
大相撲の横綱・朝青龍(28=高砂部屋)が先輩に八つ当たりする暴挙に出た。6日、東京・墨田区の出羽海部屋に出向き、幕内・普天王らと18番取ったが、安定感を欠く動きにイライラが爆発。稽古後は元小結の解説者、舞の海秀平さん(40)に対し「顔じゃないよ」と暴言を吐いた。またしても品格が問われることになった横綱は、7日に進退が懸かる初場所(11日初日、両国国技館)へ向けた稽古総見に臨む。
底冷えする出羽海部屋の前に集まっていた報道陣が、横綱のひと言で完全に凍り付いた。朝青龍が迎えの車へ向かった際、テレビ解説に備えて取材に訪れていた舞の海さんが言葉をかけた。「横綱、まだ引退しないでくださいね」。激励のつもりだったが、この日の横綱には気さくに返す余裕はなかった。表情をこわばらせると「顔じゃないよ!」と一喝。「そんな身分じゃないだろ」を意味する暴言のあとは、「じゃあな」と吐き捨て、車を走らせた。
舞の海さんは現在こそ日本相撲協会を離れているものの、朝青龍にとっては年上かつ先輩。いくら横綱とはいえ、常識外れの発言だった。相撲協会は昨年12月26日に全協会員を対象に生活態度などを注意する講習会を開いたが、2週間もたたないうちに看板力士が“暴挙”。舞の海さんも「(横綱は)怒ってましたね~」と苦笑いを浮かべるしかなかった。
噴火の伏線はあった。今年2度目となる出羽海部屋での稽古。栃乃洋に2敗した取組で、ふがいなさを露呈した。最初は低い姿勢から相手を土俵際に運んだが、軽いいなしで後ろ向きにされ、逆転負け。直後には頭をつけて土俵際まで持っていった瞬間、足がついていかず、前のめりになった。稽古後、舞の海さんの「初場所に出るつもりで…」の問いにも「まだ分からない」とトーンダウン。舞の海さんも「完全には分かりにくいですが、調子は悪いですね」と分析した。
午後には横綱・白鵬と明治神宮で奉納土俵入りを披露。約3500人の観衆から大声援を受け、「大勢のみなさんに来てもらった」と感謝の言葉を口にしたが、喜んではいられない。7日は場所前の最終チェックの場となる稽古総見があり、内容次第では出場に黄信号がともりかねないからだ。品格が問われる言動が続けば、横綱審議委員会に与える印象もさらに悪くなる。崖っ縁男にとって、復活への道は想像以上に険しい。
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楽天野村克也監督(73)が30日、フジテレビ系「ザ・ディレクター魂08 とくダネ!重大騒動の“主人公”もうひとつの真実SP」にコメンテーターとして出演。来年3月開催のWBCでの原ジャパンについて「大変、苦戦するでしょう」と予言した。
WBCの予想スタメンも披露。イチロー、岩村の名前は挙げたが、捕手にはメジャーリーガーの城島ではなく西武細川を指名した。
また「気になったのはメンバーの編成。何でこいつが選ばれていないの、ってのが何人かいましたね」とチーム編成をチクリとやるのも忘れなかった。
勝負師・・・プロフェッショナル・・・・
凄い男です
凄い男です
マリナーズのイチロー外野手(35)が23日、愛知県西春日井郡豊山町の豊山グラウンドで「第13回イチロー杯争奪学童軟式野球大会」の閉会式に出席。大会会長のあいさつでマイクを握ったイチローは(1)WBC連覇(2)張本勲氏(本紙評論家)の持つ3085安打の日本記録更新(3)大リーグ新記録となる9年連続200安打--の3項目達成を来季の“公約”に掲げた。
WBC、そして記録への挑戦が懸かる09年。イチローが子供たちへ発したメッセージには確かな決意が込められていた。
「来年はいろんなことが待ち受けています。WBCが春にあり、シーズンに入って3085という数、9年連続の記録。胸を張って報告できるようにしたい。来年も前に進んでいきたい」
ジーンズに黒のスニーカー、グレーのタートルネックに紺のジャケットというラフな姿で、子供たちと触れ合ったイチローは、すでに来季の戦いを見据えていた。張本勲氏の持つ3085安打の日本記録には、あと2本で並ぶ。記録更新は4月の開幕早々に達成できる。さらに、9年連続200安打という大リーグ新記録への挑戦。常に記録との戦いに身を置く男には、その前にWBC連覇という大仕事が待っている。
調整に抜かりはない。代表候補メンバーが発表され、オリックス時代の恩師・仰木監督の命日でもあった15日は、スカイマークスタジアムで約2時間の自主トレを敢行。早くもフリー打撃で19本のサク越えを放った。マリナーズのワカマツ新監督が「イチローは11月からバットを振っていた」と明かした通り、オフの休みはほとんどとっていない。「守るのではなく、奪いにいく」と語る日本連覇への道。第1回大会同様、チームの大黒柱としての覚悟はできている。
「僕は2008年、日米通算3000本安打を達成したけど、3000回以外に6000回以上の失敗があります。失敗からたくさんのことを学んでほしい」。真っすぐな目をした少年たちの前で立てた誓い。裏切るわけにはいかない。
敵味方関係なく、プロフェッショナルな選手は凄いですね
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最後まで攻め続ける姿勢に、さしものスター軍団も明らかに神経質になっていた。マンチェスター・ユナイテッドのファーガソン監督は「とても感銘を受けた」と話した。G大阪は自らの攻撃的なスタイルを遺憾なく発揮した。
点の取り合いはまさに望むところだったろう。「がっぷり四つでやった中での結果。これ以上は望めなかった」。試合後、西野監督はさばさばと振り返った。
当初は「そんなにボールを保持できない」との懸念から、大黒柱の遠藤をあえてボランチの位置まで下げ、しっかりと攻撃の起点を作ることを心がけた。だが、思ったほど相手のプレスに厳しさがなく、ボールが回せることがわかった。結果的にボール保持率もマンチェスターUの49%に対して51%と上回った。
立ち上がりから、遠藤の視野の広さ、パスセンスが光った。遠藤を経由したボールは何度もいい形で前線に供給された。後半29分に山崎が初得点を挙げると、34分には遠藤が名GKファンデルサルとのPKでの対決で、どこにボールをけり込むかの我慢勝負に勝って追加点を奪い、ロスタイムにも橋本が目の覚めるようなシュートを突き刺した。
確かに、前半にセットプレーから2失点し、後半も得点した直後に失点を重ねるなど、守備のもろさ、課題も噴出した。だが、それもG大阪らしさのひとつ。
遠藤は「ある程度、通用するものを見せられた。天皇杯に勝って、来年もまたこの舞台に立ちたい」と力を込めた。「いい財産ができた」とは西野監督。G大阪はその存在を世界に示した。(北川信行)
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いつも前向きな桑田さんには脱帽です。
元パイレーツで野球評論家の桑田真澄氏(40)が来年1月、早大大学院を受験することが16日、明らかになった。「スポーツ科学研究科」の社会人入試を受験するもので、合格すれば来年4月から晴れて“大学院生”となる。巨人からドラフト1位指名されたPL学園3年時にも早大進学の可能性があった桑田氏にとっては、25年越しで夢が実現することになる。
都の西北。緑あふれるキャンパスに、来年4月から桑田氏が通う――。昨年、39歳にして念願のメジャーリーグのマウンドに上がった桑田氏が、胸に抱いていたもう1つの大きな夢を実現させる。早大受験。驚きの“進路”について、本人は「(米国から)帰国後、ずっと勉強して備えていました。現役の頃から、引退後は勉強をしたいとずっと思っていましたからね」と動機を説明した。
桑田氏が受験するのは、早大大学院の「スポーツ科学研究所」。修士課程の1年制でスポーツビジネス、マネジメントなどを学ぶコースだ。すでに11月に入学試験審査は終了。大学卒業と同等の資格を得て、書類審査などを経て来年1月24日の面接試験に臨むことになっている。合格すれば4月からは早大生。平日夜間や土曜日などに、キャンパスに足を運んで机に向かうことになる。
小学6年生の時の作文で「将来の夢は(野球の)強い高校から早稲田大学に行くこと」と書くなど、早大は幼少時からずっとあこがれていた。運命の85年ドラフト会議。PL学園3年生だった桑田氏は連日、早朝5時半に起床して1日2度の「100日祈願」を行った。祈ったのは「早大に行って巨人に入団することが理想ですが、ベストの道をください」。ドラフトでは巨人から1位指名を受け、受験はせずに巨人に入団した。それから25年越しの夢。桑田氏は巨人入団後も入学願書を取り寄せて手元に置いておくなど「いつかは…」の思いを抱き続けてきた。順序こそ逆にはなったが、合格すれば来年4月1日の誕生日に41歳になるのとほぼ同時に「キャンパスライフ」がスタートすることになる。
「サークル活動?そんなことはまだ考えられませんよ。でも仮に合格すれば、野球を見に行ったりする時間は出来ると思う」。早大野球部の斎藤佑樹は来春から3年生。その斎藤の“後輩”となる桑田氏が、神宮に六大学野球の観戦に出掛けるシーンもありそうだ。さらに将来の指導者を目指すという点を考えても、スポーツビジネスなどを学ぶことは自身の引き出しを増やすことにもつながるに違いない。今季限りで現役を引退したKKコンビ。しかし桑田氏は、まだまだファンを驚かせてくれる。
◆桑田 真澄(くわた・ますみ)1968年(昭43)4月1日、大阪府生まれの40歳。PL学園で春夏計5度甲子園に出場し、優勝2度、準優勝2度。85年ドラフト1位で巨人入団。86年5月25日の中日戦でプロ初登板。同6月5日の阪神戦で初勝利。06年オフに巨人退団、07年から08年3月まで大リーグ・パイレーツでプレーした。獲得タイトルはMVP(94年)、沢村賞(87年)、最優秀防御率賞(87、02年)、最多奪三振(94年)など。オールスター出場8度。1メートル74、80キロ。右投げ右打ち。